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浦添市文化財調査報告書 | 浦添市

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(1)

浦添市文化財調査報告書

2012(平成24年)年3月

浦添市教育委員会

浦添市西海岸の石切場跡

港川地区2

(2)
(3)

写真2 調査地 遠景(南から)

(4)

写真4 調査地遠景(南から) 写真5 調査地満潮(南から)

写真6 遺構1完堀状況(南東から)

写真8 遺構1床面の工具痕(北東から) 写真9 遺構1床面の工具痕及び西壁状況(北から)

(5)

写真12 遺構2掘削状況1(北東から)

写真13 遺構2掘削状況2(北西から)

写真15 遺構2完掘状況(南東から)

写真17 遺構2壁際床面で見られた工具痕(北東から)

写真14 遺構1(奧)と遺構2(手前)位置状況(東から)

写真16 遺構2西側工具痕(東から)

(6)

写真19 遺構3検出状況(円内)※手前は遺構2

写真21 遺構4検出状況(円内)※奥は遺構1

写真23 遺構5検出状況(南西から)

写真25 検出作業状況(東から)

写真20 遺構3完掘状況(北東から)

写真22 遺構4完掘状況(北東から)

写真24 遺構5完掘状況(東から)

(7)

写真27 遺構6検出状況(東から)

写真29 遺構7検出状況(東から)

写真31 遺構7完堀状況(北西から)

写真33 遺構7南東角掘削痕(北西から)

写真28 遺構6完掘状況(東から)

写真30 遺構7完掘状況(南西から)

写真32 遺構7北西部掘削痕(西から)

(8)

浦添市文化財調査報告書

2012(平成24年)年3月

浦添市教育委員会

浦添市西海岸の石切場跡

港川地区2

(9)

本報告書は臨港道路「浦添線」建設に伴う浦 添市西海岸の石切場跡 港川地区2の発掘調査 の成果をまとめたものです。道路建設事業者の 内閣府 沖縄総合事務局 那覇港湾・空港整備 事務所から委託を受けて、平成22年度に本市 教育委員会が記録保存のために本発掘調査を実 施しました。

石切とは手作業で行う採石のことで、沖縄戦 の前後までは建築資材として使用する石材を手 作業により切り出していました。発掘調査地一 帯の基盤である牧港石灰岩(通称:粟石)は家 屋の柱や屋敷囲いなどに使用され、建築資材と して需要が高かったといいます。今回の調査に よって、当時この地域で行われていた生産活動 の一端を明らかにすることができ、貴重な情報 を得ることができました。

本報告書が、地域の歴史・文化の学習、なら びに学術研究の一助として多方面に活用いただ ければ幸いです。

末尾になりましたが、発掘調査事業を実施す るにあたり、ご協力をいただきました沖縄総合 事務局 那覇港湾・空港整備事務所ならびに聞 取調査で貴重なお話を聞かせてくださった地域 の皆さま、また発掘調査の際にご指導・ご助言 をいただきました先生方に深く感謝申し上げま す。

平成24年3月

(10)

例 言

1.本書は、浦添市教育委員会が臨港道路「浦添線」建設事業に伴い、2010(平成22)年度に

実施した浦添市西海岸の石切場跡 港川地区崎原2の緊急発掘調査の成果をまとめたもの

である。

2.発掘調査は、内閣府 沖縄総合事務局 那覇港湾・空港整備事務所 企画調整課からの委

託を受け、浦添市教育委員会が実施した。

3.発掘調査にかかる現場作業は、平成22年度に実施した。期間は平成22年12月6日から平成

22年12月28日である。調査の実施にあたっては、有限会社 ティガネーの支援を受けた。

4.報告書作成は、平成23年度に実施し、浦添市教育委員会文化部文化課職員がこれにあたっ

た。

5.第1図は、内閣府沖縄総合事務局 那覇港湾・空港整備事務所 企画調整課から提供いた

だいた図に加筆して掲載した。

6.本書の執筆を以下のように分担した。編集は、仲宗根久里子が行った。

仲宗根久里子 第1章、第2章第1節・第2節、第3章第1節(6)・(7)、第4章

玉栄飛道 第2章第3節、第3章第1節(1)∼(5)

7.本文中で使用した引用・参考文献は、各章末に記した。

8.石切に関する聞き取り調査では多く方々のご協力を頂きました。記して感謝申し上げます。

(敬称略、五十音順)

〔話者〕阿嘉 祐吉(浦添市大平)、粟国 不二子(浦添市城間)、内間 正吉(浦添市城間)、

我如古 良雄(浦添市城間)、古波藏 トヨ(浦添市城間)、西原 太郎(浦添市城間)、

与座 盛仁(浦添市伊祖)、与座 光男(浦添市伊祖)、

與那覇 政之(海兵隊所属文化財調査官)

〔協力〕稲江 哲哉(浦添市城間自治会長)、社団法人 浦添市シルバー人材センター

9.調査に関る実測図や写真等の記録は、浦添市教育委員会文化部文化課において保存している。

1.本書に表示している北は座標北を示す。

2.基準高はすべて海抜高を用い、メートル単位で表した。

3.遺構断面図を作成した位置については、遺構平面図に軸線で示した。

4.地形測量図については1/100を基本として作成し、1/400・1/200の縮尺で掲載している。

5.遺構位置図については、1/10を基本として作成し、1/20・1/10の縮尺で掲載している。

6.本書で用いる道具の種類、名称については「浦添市西海岸の石切場跡 城間‐仲西地区」浦

添市教育委員会(2010年3月)を参考にしている。

(11)

目 次

巻頭図版

序文

例言・凡例

目次

第1章 はじめに

第1節 調査にいたる経緯 ………1

第2節 発掘調査の方法と経過 ………2

第3節 調査体制 ………2

第2章 遺跡の位置と環境

第1節 浦添市の地理的環境 ………4

第2節 遺跡の地理的環境 ………4

第3節 遺跡周辺の歴史的環境 ………6

第3章 発掘調査の成果

第1節 調査の成果

(1)遺構1 ………7

(2)遺構2 ………7

(3)遺構3 ………11

(4)遺構4 ………11

(5)遺構5 ………11

(6)遺構6 ………13

(7)遺構7 ………13

第4章 総括 ………16

(12)

写真目次

写真 1 調査地 遠景(北西から) 写真 2 調査地 遠景(南から) 写真 3 調査地 全景(上空から) 写真 4 調査地遠景(南から) 写真 5 調査地満潮(南から) 写真 6 遺構1完掘状況(南東から) 写真 7 遺構1完掘状況(南西から) 写真 8 遺構1床面の工具痕近景

(北東から)

写真 9 遺構1床面の工具痕及び西壁 (北から)

写真10 遺構1北側工具痕(北東から) 写真11 遺構1南側工具痕(南東から) 写真12 遺構2掘削状況1(北東から) 写真13 遺構2掘削状況2(北西から) 写真14 遺構1(奧)と遺構2(手前)位置

00 状況(東から)

写真15 遺構2完掘状況(南東から) 写真16 遺構2西側工具痕(東から) 写真17 遺構2壁際床面で見られた工具痕

(北東から)

写真18 遺構2西側工具痕近景(北西から) 写真19 遺構3検出状況(円内)

写真20 遺構3完掘状況(北東から) 写真21 遺構4検出状況(円内) 写真22 遺構4完掘状況(北東から) 写真23 遺構5検出状況(南西から) 写真24 遺構5完掘状況(東から) 写真25 検出作業状況(東から)

写真26 礁池で見かけたルリマダラシオマ

00 ネキ

写真27 遺構6検出状況(東から) 写真28 遺構6完掘状況(東から) 写真29 遺構7検出状況(東から) 写真30 遺構7完掘状況(南西から) 写真31 遺構7完掘状況(北西から) 写真32 遺構7北西部掘削痕(西から) 写真33 遺構7南東角掘削痕(北西から) 写真34 遺構7床面でみられた掘削痕(北

00 西から) 写真35 遺構4俯瞰 写真36 遺構7オルソ写真

挿図目次

第 1 図 臨港道路「浦添線」計画路線図 (一部)及び港川地区2の発掘

調査範囲 ………3 第 2 図 浦添市と市内の主な文化財

位置図 ………5 第 3 図 遺構1モデリング図 ………7 第 4 図 遺構2モデリング図 ………7 第 5 図 遺構位置図 ………8 第 6 図 遺構1 平・断面図 ………9

第 7 図 遺構2 平・断面図 ………10

第 8 図 遺構3モデリング図 ………11

第 9 図 遺構5モデリング図 ………11

第10図 遺構3・4・5 平・断面図 ………12

第11図 遺構6モデリング図 ………13

第12図 遺構6平・断面図 ………14

(13)

− 1 −

第1章 はじめに

第1節 調査にいたる経緯

平成21年11月5日付(府港那第277号)により、内閣府 沖縄総合事務局 那覇港湾・空港整備 事務所長から、臨港道路「浦添線」事業に伴う「文化財の有無について(照会)」があった。これ を受けて浦添市教育委員会は、事業計画地内において埋蔵文化財石切場跡と溝状遺構が所在するこ とと、当該地域一体には国指定天然記念物のオカヤドカリが生息している等を明記し、それらの取 り扱いについて協議を要する旨を平成21年11月9日付(浦教文第233号)により回答した。

その後、浦添市教育委員会では周知の遺跡である浦添市西海岸の石切場跡における臨港道路事業 に係る部分の範囲確認調査を、平成22年7月14日から平成22年9月28日まで行った。範囲確認調 査では、工事影響範囲内(3頁:第1図)において石切跡と工具痕を確認した。また現地調査と並 行して聞き取り調査を実施した。その聞き取り調査により、溝状遺構と呼称した長さ50m前後で 30本あまりの遺構は、1960年代に米軍がケーブル設置のために構築したことが明らかとなった。

上記の調査結果を、平成22年10月7日付(浦教文第149号)にて沖縄総合事務局 那覇港湾・空 港整備事務所へ報告し、同年10月12日、那覇港湾・空港整備事務所と浦添市教育委員会で、道路 計画線上にかかる埋蔵文化財(石切場跡)及び天然記念物オカヤドカリについて取り扱いの協議を 行った。溝状遺構については米軍が構築したことの判明により、現代遺構との判断から本調査にお ける保存記録の対象からは除外となった。また、本発掘調査は浦添市教育委員会が実施することや、 調査に係る費用は浦添市教育委員会が積算し、事業者(沖縄総合事務局)が負担すること、今回の 協議を踏まえ協定を結ぶことなどについて協議した。その後、発掘調査の時期、期間について調整 した結果、平成22年度に現地調査を実施し、平成23年度に「発掘調査報告書」を刊行する2ヶ年 事業とすることとし、年度毎にそれぞれ契約を交わすことで合意した。

こうした埋蔵文化財の取り扱いに関する協議や調整に基づき、平成22年10月26日、内閣府沖縄 総合事務局 那覇港湾・空港整備事務所長と浦添市教育委員会との間で、埋蔵文化財の取り扱いの 措置及び発掘調査の実施方法等について定めた協定を締結した。さらに、同日付で、協定書に基づ く、「発掘調査全体実施計画書」を提出し、発掘調査事業の実施体制や現地調査から資料整理、報 告書作成までの2年度にわたる発掘調査全体スケジュール、それぞれに係る各年度の概算費用等を 提示した。

同年11月8日、上記の協議、協定を踏まえ沖縄総合事務局 那覇港湾・空港整備事務所長と浦添 市長との間で、平成22年度分の発掘調査業務の委託契約を締結した。

以降、「埋蔵文化財の取り扱いに関する協定書」並びに平成22年度に締結した「発掘調査委託業 務委託契約書」、「実施計画書」等に基づき、2ヶ年事業として臨港道路「浦添線」建設に伴う浦添 市西海岸の石切場跡 港川地区2の記録保存のための本発掘調査を実施した。

(14)

− 2 −

第2節 発掘調査の方法と経過

発掘調査は平成22年12月6日から同年12月28日で実施した。浦添市教育委員会の積算の基に、 「臨港道路浦添線発掘調査事業に伴う発掘支援業務委託」の発注を行い、平成22年11月25日付で

有限会社 ティガネーと業務委託契約を締結した。調査は、本市文化課職員の指揮・監理のもと行 った。

打ち合わせ協議や実施計画書及び工程表の提出、現場における現場事務所の設置等を行い、12月 6日より本調査を実施した。まず、調査地の着手前の写真撮影を行い、遺構面が海草で覆われてい たことからそれらの除去作業を行った。作業と並行して、調査地点の簡易バリケードの設置、作業 員への天然記念物オカヤドカリの周知徹底を行った。

海草および海砂の除去作業を行い、露出した遺構について順じ写真測量作業を行った。遺構は、 満潮の時間帯は海水に浸るため、干潮の時間帯のみの調査となった。調査の終盤に、ラジコンヘリ を導入し、周辺地形を含め全景写真として記録した。合わせて地形測量用の写真測量も行った。図 面・写真等の記録については、それぞれの台帳によって管理した。

一連の記録調査、図面等の補足調査が終了した後は、安全対策上埋め戻しを行った。最終日は現 場事務所を撤去し、同日付で、那覇港湾・空港製事務所へ書面をもって、現場引渡しとした。

第3節 調査体制

調査体制は以下のとおりで行った。

調査主体 浦添市教育委員会

事業責任 浦添市教育委員会    教 育 長 西 原 廣 美(平成17年度∼平成23年8月) 〃   津 波 清(平成23年10月∼)

事業所管   〃  文 化 部  部   長 下 地 安 広(平成19年度∼平成23年度) 事業統括   〃  文 化 課  課   長 當 間 眞 榮(平成20年度∼平成23年度) 事業調整   〃         文化財係長 宮 里 信 勇(平成18年度∼平成22年度)

〃   松 川 章(平成23年度∼) 事業事務   〃  文化振興係  主   事 松田奈津子(平成23年度∼)

臨 時 職 員 名渡山俊幸(平成22年度∼平成23年度) 〃   當 間 弘 子(平成23年度∼)

〃  文 化 財 係  主 任 主 事 仲宗根久里子 調 査 員   〃    〃    主 任 主 事 仲宗根久里子

〃    嘱 託 職 員 玉 栄 飛 道(平成22年度∼平成23年度) 資料整理   〃    〃    嘱 託 職 員 玉 栄 飛 道(平成22年度∼平成23年度) 調査協力   〃    〃    主 任 主 事 渡久地政嗣

(15)

− 3 −

(16)

− 4 −

第2章 遺跡の位置と環境

第1節 浦添市の地理的環境

浦添市は、市域面積19.09h、人口111,977人、世帯数44,493世帯(平成23年9月末現在)を 擁し、平成22年国勢調査による市町村人口では那覇市、沖縄市、うるま市に次いで県下第4位の 市である。本市は沖縄本島中部の西海岸にあって、南側には県都である那覇市、東側に西原町、北 側に宜野湾市が隣接する。市域(飛地を含む)は東西8.4km、南北4.6kmで北を頂点として南西と 南東に広がった扇状の形をしている。市の西部には国道58号線、市中央部には国道330号線、東部 には沖縄自動車道がそれぞれ南北に走り、島の南北を結ぶ主要交通路に位置する。海浜部は、南北 約3km、東西約1km、面積約273ヘクタールの地域(市域の14.3%程度)を米軍牧港補給地区 (キャンプキンザー)が占めている。

市の地形は、標高40m前後でほぼ二分され、東部は起伏の小さな丘と浅い谷が連なる波浪状の丘 陵地、西部は東中国海に続く東高西低の地盤にある。北部には、北西─南東方向に標高120∼140 mを測る浦添断層崖が形成される。本市の最高地点は、浦添城跡の138.4mであり、また伊祖から 浦添城跡にわたる高台は、断層地形で石灰岩提と呼称される。それら丘陵を分水嶺に北流する牧港 川、シリン川、西流する小湾川、安謝川の四河川はいずれも東中国海へ注いでいる。海岸線にはほ ぼ全面的に、沖合にかけて豊かなサンゴ礁が発達している。

地層は、下位から上位に島尻層群、琉球層群、海浜堆積物及び沖積層に大別することが出来る。 島尻層群は浦添市の基盤を形成し、市の中央部∼南東部に広く露出するが、市西部や北部において は分布区域が狭く、かわって琉球層群が広く分布する。島尻層群の上に不整合でおおう琉球層群は 層位学的に、那覇石灰岩、読谷石灰岩、牧港石灰岩に三分でき、市内には那覇石灰岩と牧港石灰岩 が分布する。沖積層や海浜堆積物は四つの河川の河口付近や海岸沿いにみることができる。

<参考文献等>

・浦添市ホームページ 『浦添の人口』『統計うらそえ』

・総務省統計専門サイト 『平成22年国勢調査人口等基本集計(総務省統計局)』

・浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第1巻 通史編』−浦添のあゆみ− 浦添市教育委員会 1989年3月

・浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第6巻 資料編5 自然・考古・産業・歌謡』 浦添市教育委員会 1986年

第2節 遺跡の地理的環境

浦添市西海岸の石切場跡は、浦添市字港川から仲西にかけての西海岸一体に点在する遺跡である (第2図)。海岸線には、ほぼ全面的に隆起珊瑚礁台地の特徴である礁裾が発達しており、沖合に約 800m∼1,300mほど広がる。同沿岸の礁裾は干瀬イノー型に属し、干潮時に干上がる礁原(干瀬) と干潮時でもごく浅い水域の礁池(イノー)からなる。

(17)

第2図 浦添市と市内の主な文化財位置図

5

(18)

− 6 −

軟質な石質は掘削が容易なことから県内産の主要石材の一つとして採掘され、本市の西海岸におい ても採掘跡(石切跡)が広い範囲に点在する形で発見されている。

<参考文献等>

・浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第6巻資料編5 自然・考古・産業・歌謡』 浦添市教育委員会 1986年

・浦添市教育委員会 『浦添文化財悉皆調査報告書』 平成2年

・浦添市城間自治会 『城間字誌 第二巻 城間の歴史』

第3節 遺跡周辺の歴史的環境

石切場跡港川地区2は浦添市字港川崎原に所在している。港川は近世に成立した屋取集落である。 字としての成立は1943(昭和18)年で、城間と牧港から分離して字港川が成立した。港川は国道 58号を境として「上港川」と「下港川」に分かれる。それぞれ最も先に住み着いた家の名をとって、 上港川を「天久屋取」、下港川を「銘苅屋取」とも呼ばれている。崎原は、字港川成立以前は城間 に属していた小字で、「突出した場所」という語意がある。戦前は民家が点在し、その他の土地は 墓地や畑地として利用されたようである。昭和10年代の土地利用図を参照すると調査地は「山林・ 原野・雑種地」となっている。1944(昭和24)年、南飛行場(通称:仲西飛行場)の建設が進め られ、戦後は飛行場とその周辺が牧港補給基地(キャンプキンザー)として接収され、基地建設が 行われた。崎原の西側の地域も牧港補給基地内に接収されている。1958(昭和33)年、崎原の東 側に米軍住宅が作られたが、住宅が払い下げられた後、1981(昭和56)年に港川崎原自治会が設 立し、現在も地元の方々が生活している。

近隣の文化財として嘉門貝塚や横竹貝塚などの先史時代の遺跡、崎原古墓群・東空寿近世墓群・ 越地原古墓群といった近世から近代にかけての古墓群などがみられる。また、民俗文化財としては 本遺跡に隣接する空寿崎に古重嶽がある。古重嶽は雨乞いなどで拝まれたといわれており、『琉球 国由来記』や『遺老説伝』には、「羽地ノロが古重嶽に葬られ、拝まれたことが古重嶽の始まりで ある」という記述がなされている。

石切場跡は近隣の地域でも確認されており、北側に隣接する港川地区1や南側の城間和奈原、仲 西ソミザ原にも石切場跡が確認され、発掘調査が行われた。また、牧港伊礼原・新間原では海岸付 近に石切場があったといわれている。

<参考文献等>

・『浦添の地名』 浦添市文化財調査報告書第13集 浦添市教育委員会 1988年

・浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第四巻資料編3 浦添の民俗』 浦添市役所 1983年

・浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第七巻資料編6 浦添の戦後』 浦添市教育委員会 1987年

・字誌編集委員会編 『牧港字誌』 浦添市牧港自治会

・『崎原古墓群』浦添市文化財調査研究報告書 浦添市教育委員会 2011年

・外間守善・波照間永吉編 『定本 琉球国由来記』 角川書店 1997年

・浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第二巻資料編1 浦添の文献資料』 浦添市役所 1981年

(19)

− 7 −

第3章 発掘調査の成果

第1節 調査の成果

本遺跡からは石切に関する遺構が発見され、石材を切り出した痕と工具痕が検出された。本遺跡 の工具痕は城間‐仲西地区の報告書(2010年刊行)において分類されたAタイプ、Dタイプの工具 痕となっている。各遺構とも遺物の出土は認められない。以下、本遺跡から検出された遺構につい て記述する。なお、本報告書で用いる石切道具の名称は城間‐仲西地区の報告書での呼称を用いる。

(1)遺構1(第3・6図、写真6∼11)

遺構1は長さの異なる石材を掘り窪めて切り出 した遺構で、平面形は二つの長方形が合わさった ような形状をしている。長軸約200cm、短軸約 160cm、深さ25∼37cmを測る。遺構上場が北 東方向に下っていることから、遺構底面も地形に 沿って北東方向へと下っている。工具痕は遺構の 底面に見られ、約3cm幅のヒチと4∼6cmのイ ヤの痕が残っている。これらの工具痕の向き・並 びから本遺構から切り出された石材を確認するこ とが出来た。ヒチの明瞭な痕跡は床面の壁面際と、 遺構から突き出て見られた。遺構底面には工具痕 や石材を切り取った凹凸が明瞭に残るが、壁面に はそれが少なく平滑である。

また、イヤの並びと重なる形でヒチの痕跡を確認できる箇所も見られた。イヤの痕は24基見られ、 石材の長軸方向上に並んでおり、本遺構のイヤの痕は一つの石材につき6基確認できる。イヤの痕 は2種類の石材とも長軸方向同士で平行するような形に見える。

以上の工具痕から切り出された石材を推定することができた。長軸方向N-65°-E で123×27× 34cmを測る石材が4本、長軸方向N-25°-W で100×22×37 cmを測る石材が2本確認できる。 その内、長軸が長い123cmの石材は1本が切り出す作業の途中で残されている。遺構1に隣接して 北側に遺構4が見られるが、本遺構との関連性は不明。

(2)遺構2(第4・7図、写真12∼18) 遺構2は平面形がいびつな凸形を呈する遺構 で、長軸約185cm、短軸102∼154cm、深さ約 30cmを測る。遺構上場は北東方向に向かって下 り勾配になっており、遺構底面も上場の地形に沿 うように北東方向に下っている。遺構の壁面はお よそ垂直になっているが、壁面上部が内側にせり 出している箇所も見られた。

工具痕は壁面には見られず、底面に残っており、

第3図 遺構1モデリング図

(20)

− 8 −

(21)

− 9 −

(22)

− 10 −

(23)

− 11 −

約3cm幅のヒチと4∼6cmのイヤの痕跡が確認できた。ヒチの痕は遺構壁際の底面に明確な痕跡 が見られ、やや不明瞭ながら遺構内側でも見ることが出来た。ヒチの痕は7基あり、その内6基が石 材の長軸方向上に並んでいる。残る1基も石材の長軸方向上に残存している。

これらの工具痕から推定される石材は3種類あり、長軸方向N-33°-Wで約91×25×29cmを測 る石材が2本、長軸方向N-33°-Wで約113×23×27cmを測る石材が1本、長軸方向N-33°-Wで 約146×26×32cmを測る石材が2本ある。遺構の南端には長さ146cmの石が切り出されずに残さ れている。

(3)遺構3(第8・10図、写真19∼20)

遺構3は溝状の遺構で、城間‐仲西地区の分類 ではAタイプに属する遺構である。長さ46cm、幅 約4cm、深さ9∼14cmを測る。工具痕は底面に 残っており、幅約3cm、深さ9∼14cmの凹凸が 見られることからヒチの痕と考えられる。本遺構 は遺構2の東にあるが、遺構2とは軸が異なって いる。

このことから遺構2とは別に石材を切り出そう としたが、ヒチで溝状に穴を穿った段階で作業を 止めたものと思われる。

(4)遺構4(第10図、写真21∼22・35)

遺構4は遺構1の近辺に見られる溝状遺構で、 城間-仲西地区のAタイプに該当する。長軸14cm、 短軸4∼5cm、深さ2∼6cmを測る。遺構の南 東側が深くなっており、北西側に行くにしたがい 浅くなる。本遺構の長軸方向はN-30°-Eとなる。 本遺構では石材を掘り出す初期の段階で石切作 業を中止したようである。遺構1とは石切の軸が 異なっている。そのため、遺構1との関連性は不 明である。

(5)遺構5(第9・10図、写真23∼24)

遺構5は溝状の遺構で、城間-仲西地区のAタイプ に該当する。長軸61cm、短軸4∼9cm、深さ6∼ 23cmを測る。底面は全体的に凹凸を呈しており、南 東から北西に徐々に下がり最深部で23cmと深くなる。 遺構の法量と底面の状態からヒチによって造られた遺 構であると考えられる。遺構5の北側に隣接してヒチ によって造られたと考えられる工具痕が見られる。こ の工具痕は長さ約7cm、深さ約3cmを測る。

第8図 遺構3 モデリング図

写真35 遺構4俯瞰写真

(24)

第10図 遺構3・4・5 平・断面図

(25)

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遺構の1から5が調査地の北側に集中し、遺構6および後述の遺構7とは南西へ約72m離れた箇 所に点在する。その72m間で石切跡を確認することは無く、1960年代初めごろに米軍がアンテナ 塔工事の時に構築した溝が30あまり並列している。(写真3)

(6)遺構6(第11・12図、写真27∼28)

遺構6は長方形の周囲が窪んだ形状をしており、 平面観はカタカナのロの字を呈している。長軸約 180㎝、短軸約127㎝、深さ約10㎝を測る。中央に 残る凸状部分は、長軸約110㎝、短軸約55㎝を測る。 切り出す石材の対象が中央部分であるか、周囲の窪 んだ部分であったかは判別が困難であった。切り出 す対象を中央部と仮定すると、遺構1から5でみら れたヒチを用いた切り出しの手順とは異なることに なり、またロの字部分の窪んだ箇所であったとする と、切り出された石材は約10㎝とかなり薄いことに なる。

本遺構では明瞭な工具痕は確認することはできなかった。

(7)遺構7(第13図、写真29∼34・36) 遺構7は石材を切り取った

範囲が、その他の遺構と比べ て広い遺構であり、異なる長 さの石材を切り取ったと考え られ平面形は不整形である。 長軸約15m、短軸約9.7m、 深さ約25㎝を測る。遺構南端 のラインの方向はN‐57°‐ W。床面は北西の海側に向か って下り勾配を持つ。床面の 地山は赤褐色の泥質砂岩であ り、壁面及び遺構周囲で確認 できる石灰岩とは異なる。波 打ち際に位置しているため、 壁 面 及 び 底 面 の 侵 食 が 著 し く、特に北及び東側の範囲が

不明瞭である。遺構中央部には南東から北西方向に、米軍によって構築された溝が通る。

工具痕は、床面の一部に幅約4㎝の縦方向の掘削痕4条と、遺構の外側に薄く削った幅11∼20 ㎝の溝状の痕跡が2箇所確認できるのみで、切り出された石材の規格が分かる工具痕は確認できな かった。

第11図 遺構6 モデリング図

(26)

第12図 遺構6 平・断面図

(27)

第13図 遺構7 平・断面図

(28)

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第4章 総括

本発掘調査により石切跡やそれらに伴う工具痕を検出し、それぞれの遺構の特徴を個別報告した。 ここでは全体的に整理し、総括とする。

本発掘調査では、各遺構とも遺物(道具)の出土が認められなかったのは残念であった。なお、 本報告書で用いた道具の種類や名称については、2010年に刊行した同遺跡の城間―仲西地区の報 告書での呼称を用いている。

観察を行った遺構1・2の床面には、規則性に並ぶ凹状の窪みがみられた。これらは幅4㎝∼6 ㎝を測り、石切道具の一つであるイヤの使用痕とみられた。また、床面の壁際では壁に沿って3㎝ 幅の浅い溝状の窪みがあり、この溝は、石切を行う初期段階にヒチで石を縦に切る時の痕跡とみら れた。そして床面でみられた凸凹のうねりは、イヤで割りとることにより生じる痕跡だとみられた。 これらは聞取り調査(浦添教委2010年)での証言とも符合し、同地区においても城間―仲西地区 と同様な道具・切り出し方法が行われていたとみられる。ただし、本地区ではCタイプの遺構は見 られなかったため、初期段階で行う石を縦に切る工程はヒチのみで行われていたと考えられる。

現地では石を切り出した跡が遺構として残り、その法量を計測することによって切り出された石 材の種類が想定できる。牧港在住の方からの聞取り(浦添教委2010年)では、イシバーヤは長さ 三尺(約90㎝)と六尺(約180㎝)が主流で長いものでは七∼九尺(約210㎝∼約270センチ)、幅 と厚さはともに一尺(約30㎝)ほどあったという。遺構1からは長さ約120㎝の石材が3本、長さ 約100㎝の石材が2本切り出されたとみられ、遺構内には長さ約120㎝の石材が1本切り出されず に残っている。遺構2では、長さ約90㎝の石材が2本、長さ約110㎝の石材が1本、長さ約140㎝ の石材を2本切り出したと見られる。また、遺構2内においても長さ約146㎝の石材が切り出され ずに残っている。幅は遺構1では約34㎝∼37㎝を測り、遺構2では約27㎝∼32㎝であった。これ らの結果から、本調査地点で切られていた石材のほとんどは、長さ三尺を対象に採石していたこと が考えられた。しかし、長さ約120㎝∼約140㎝の石材跡が7本も確認されており、聞き取りで得 られた規格以外の石柱の可能性なのか、規格以上の大きな石を切り出し、整形して三尺とするのか 判別出来なかった。また、同じく聞き取りで得られていた「ヒラガー」と呼ばれる平板状の石材を 切り出し跡は一つも無く、本調査地区での対象とした石材は石柱(イシバーヤ)であったことが推 定される。

このように石材の種類や規格が判明した遺構は2箇所のみで、遺構3や遺構4のようなヒチによ る工具痕のみの遺構も点在し、石材の供給地というよりも、城間─仲西地区のような小規模な石切 が想定される。また、発掘調査と並行して地元城間在住の方々に聞取りを行ったところ、この場所 で採石が行われていたこと自体を知る人は少なかった。偶然にも得られた聞取りでは「ここの(当 調査区)石は硬いから、ほとんど石を採らなかった」という方がいた。その情報からも本調査地区 の石切跡の規模が小さかったことの裏づけになると思われる。

現在の建築資材はコンクリートが主流をなしており、当時の家屋を垣間見るためには一部の民家 や博物館施設へ行かなければならない状況である。家屋の柱や屋敷囲い、墓石等に利用された同石 材は生活の中で身近なものであり、牧港石灰岩をとおして、地域における生産や流通など人々の生 活の復元が可能となり、当時の姿を後世へ伝えていくことの出来る貴重な歴史資料であると考える。

《引用・参考文献》

・浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第4巻 資料編3』−浦添の民俗− 浦添市役所 1983年3月

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参照

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